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【対談集】 <高橋源一郎&柴田元幸 『小説の読み方、書き方、訳し方』 感想>

 此れは所謂作家志望が読むと凄い勉強になる一冊だと思う。文学論というものかな。簡単に言っちゃえば対談集なんだけど、其れだけで終わらないというか。

 まずはお互いの説明、紹介、etc...イントロダクション。小説は「固体」「気体」「液体」説に納得させられる。

 第一章の「小説の書き方」では、二人がお互いの作品を分析し、文体やら詩表現やらポストモダンやらを話し込む。
そして高橋源一郎による村上春樹論。近いものを感じていたようだ。僕は「似てるけどちょっと違うかな」ぐらいしか思っていなかった。
 次いで物語論。小説にとって物語は必要なのか? と。物語は元気の源になるか、束縛になるか。
 僕はそんなに物語って重要じゃないと思う。「その小説を感じる事」が大切だから、物語は後から来て良い。
 しかし書き手に周るとそういう事も無い。絶対的に物語が在った方が書きやすいのは確かだ。

 第二章の「小説の訳し方」では、柴田センセの生い立ちにアメリカ文学を絡めながら話し合う。藤本和子さんのブローティガンセンセの訳は素晴らしいと、翻訳家の柴田センセと高橋センセが褒める。ブローティガンの作品も藤本和子センセの訳も好きなので此れは嬉しかった。やっぱり凄い人なんだなと再確認。
 アメリカ文学の話から村上春樹センセ、片岡義男センセの話に。片岡センセは名前しか知らないので、今度買ってみようと思った。乾いた文体なんだって。
「翻訳というのは別の作品にすることだ」とあるが、確かに翻訳物はその翻訳者が書いた物として読んでいる気がする。

 第三章は、「小説の読み方」海外文学篇。待ってました。高橋センセと柴田センセが選んだ海外文学三十篇! 全部はあげられないが、メモって少しずつ集めようと思う。
 この章は、知っている前提で話が流れるので、知った上で読むとまた違うんだろうなと思う。

 第四章は、「小説の読み方」日本文学篇。大江、古井、綿矢三氏論が流れる。そして日本文学において「父」の不在が取り上げられる。この章は単純に勉強になるので、「ふむ、ふむ、ふむ、なるほど、ほほう、ほう」と頷くしか出来ない。此処でも柴田高橋両氏の日本文学からそれぞれ三十篇選ばれている。当然メモ。


 気に入った部分を抜粋。
>高橋:八年ぶりに小説五百枚ぐらいを真剣に書いたけど、あまりにつまならかった。
 う~ん、それを読んでみたい。
>高橋:死ぬまで自分の文体を持たないようにしたいというのが、僕のひそやかな願いです。
 自分の文体とは何なのだろうか。第一章の中に「昔は一月ごとに文体が変わっていた」と言っていたが、確かにな、と思った。僕もそうだ。
>高橋:なぜなら「小説」というものの最大の特徴は、「人間」がそこに登場することで、そして「小説」以上に「人間」というものを説明できる手段をわれわれは持っていないからです。――略――なぜなら、小説より面白いものは、この世に存在しないんですからね。
 成る程。確かにそうかもしれない。想像力という凄いパワーとシンプルな媒体というもので成り立ってるから、言い切ってもいいのかもしれない。
アメリカ文学というものをひとことで言うと、アメリカを発見しようとしてできないということかなと……。
 アメリカを発見するという事は自由を発見するという事なのかな。
>高橋:近代文学は権威と戦ってきた。しかし今はそれが無く、敵がいない。そしてそれは敵はいったい何なのか、になる
 そう考えると僕の小説の敵は誰なんだろう? 自分か? 自分なのか?
小島信夫について。高橋:主語が「私」「彼」「小島信夫」「夫が」と変化するが、実際生活上で主語なんて気にしない。
 確かにそうだな。そんなポイントなんて気にしなくていいのかもしれない。ん? わからないな。
>柴田:そうか、小説ってこういうこともやっていいのか。
 やっていいですよ。

 まとめ。
 とても面白かった。文学論というのはこういうものをいうのだろうか。知らない作者の名前も沢山出たので、メモってちょくちょく集めて行こうと思う。作家と翻訳家という似ているけれど違う二人のお話はとても勉強になった。
 文学に片足突っ込んだ状態の僕の様な人間が読むととても面白いだろうし、文学にどっぷり浸かった人が読んでもとても楽しめる一冊に仕上がっていると思う。